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7月31日 馬鹿ヤローカレー馬鹿ヤローカレー 2008-07-31 買いました。レトルトパウチ食品で、馬肉と鹿肉を使用した カレーだそうです。箱書きに、『思わず馬鹿ヤローと叫びた くなるウマ(馬)さ。食べた者にシカ(鹿)わからない味わ いをお楽しみあれ』とあります。製造者は判りませんが販売 者は(有)獅子口屋KYとなってます。まさかこのKYも空気読め ないってことでは無いんでしょうね。ここのfull addressと、 電話も記載されています。 何処でそんなもの売ってる?八王子の道の駅です。ここには 当然のことながら、地元の農産品、加工食品、お菓子、お酒 などが並んでおり、今日は、新選組と言う日本酒を買いまし た。土方歳三の生家がこの近くにあるから、命名されたので しょう。前回は高尾山と言う酒を買いました。今日は他に、 枝豆ととうもろこし、卵、白菜漬けなども買いました。 この道の駅は、人気スーパーなみにお客さんが入っており、 従ってそれを目当てに、遠くの農産品も売られています。 近くは、山梨のぶどう、桃。山形のねぎ、遠くは福岡の梨、 幸水も有りました。鹿児島のおくら、意外にも東京の小松菜 とか、いろいろ有ります。殆ど全ての産品の生産地が、ぱっ と見て判るように書かれていて、これも人気の原泉の一つで しょうか。今は、製品をよく見れば、必ず生産者は判るよ うに書かれています(鰻や牛のように大嘘も有ります)が、 売り場の前に立てば、ぱっと見て判るのが良いのではないで しょうか。売れると集まる、集まるから売れるという、良い 循環になっていると見ました。 しかし、馬鹿ヤローカレーは完全に名前に釣られて買いまし た。美味しいことを願ってます。 7月28日 うーん昼寝、よく寝た。 2008-07-28うーん昼寝、よく寝た。 2008-07-28
昼寝は15分から30分で充分で、1時間も寝てはよくないとか
TVの番組で、医師が言ってました。でも今日はきっちり1時 間。昼寝をして、今目が覚めました。すっきりして気持ち 良いです。 今朝は、港南台国際協力まつりで使用したテントの中で、
港南台高校から借りたものを、返却に行きました。今学校は 夏休みですから、当直の先生に立ち会って貰って、学校の 倉庫を開けて貰い、テントを返却する訳ですが、その時、こ の高校は今年いっぱいで閉鎖になると聞きました。 我が家が40年前に横浜のこの地に越してきて、間もなくこの
高校ができて、我が家の娘もお世話になる(試験に受かれば の話ですが)ようなこともあるのかな等と考えたことが、有 りました。その後我が家が三重県に越してしまい娘は、高校 時代をそこで過ごすことになりましたので、この高校とは、 無縁となりましたが、地元の高校が閉鎖と聞くと、とても寂 しいです。 今この時期、高校生が減ってくることが判っており、校舎の
耐震基準どうこうで、存続のためには、お金がかかることも 有って、県が閉鎖を決めたのは、仕方が無いのでしょうが、 何か日本の将来を暗示しているかのようで、残念でなりません。 日本の人口統計に沿った経営戦略から行けば、高校を閉鎖して
老人の施設を作れば、基本線として合ってるのでしょうが、 悔しいことです。 港南台まつりの後始末は、まだ続くのですが、私は、他のボラ
ンテイアの皆さんに、お先に失礼させて貰いました。交通安全 講習会(運転適正検査)に出席を指示されており、磯子のシル バー人材センターに11時に到着です。人材センターに登録して いる人で、運転免許を持っている人は、順番にこれを受けない といけないらしく、私が到着すると、何人もの人が時差到着し ていました。神奈川県警が3月に購入したとか言う、バスの中 に2台の運転シュミレーター(ま、ゲームセンターの運転機械 と思って下さい)があり。画面を見ながら、アクセルとブレー キとハンドルが有って、音声で次を右に曲がれとか、左に曲 がれとか指示があり、危険はいきなり現れるようになっていて 油断すると、すぐ2輪車をはねたり、子供を轢いてしまいます。 つまりブレーキを踏めと言う指示は一切無く、それは自分で 判断して踏みます。 ゴールド免許を持ってますので、こんなシュミレーターで事故
起こすのもシャクですから、慎重に運転して、結果最上ランク のAの評価を得ました。ブレーキ反応時間、0.03秒でした。 これから、老人の運転技術の劣化を知るために、必要なことだ と思いました。 7月17日 私は死を選びます。少し光が私は死を選びます。少し光が 2008-07-17 あれから1ヶ月が経ちました。6月14日の日記の彼に、少 し光が射しました。彼は横浜の大手病院の泌尿器科の検査 データと診断の結果を持って、自分の行きつけの診療所の 先生に相談に行ったそうです。その先生の前で、私は死ぬ より他に道は無いと言ったのでしょう。そうしたら、その 先生が、そんなに簡単に結論を出してはいけない。セカン ドオピニオンを聞いてみようとなったそうです。それで、 別の大手病院の泌尿器科にかかることになり、その通訳 依頼が、また私のところに来ました。 私が所属するボランテイア通訳の機関のコーデイネーター が、私に振ってくれた訳ですが、その人も私も、この患者 さんと気がつかずに仕事を受けていたのです。なにせ病名 が今回は尿管結石と言われて居ましたから。慢性腎不全と 紹介されれば、あの患者さんかなと気がつきますが、何故 か病名が違っていました。ですが、このセカンドオピニオ ンの初診は1週間前に済んでいて、既に別の通訳が付いて 診断を受けており、私は、その内容を聞いてから出掛ける ことになりました。ですから私が病院に着いた時点では、 患者さんのことも病気の内容も判って居ました。 会ってみると、彼は別人のように明るく振る舞っていまし た。何故か?前の病院では、貴方は慢性腎不全です。腎臓 は薬では治りません。透析以外に手は有りません、と 言われました。(それを私が通訳しました)そうすると、 彼としては、私はどうすれば良いの?と絶望せざるを得ま せん。今度の病院は、透析以外の何かの治療をやってみま しょうと言ってくれたそうです。そしてやって貰った処置 は、カテーテル排尿でした。日中は尿を貯めるカセット (たばこ2箱分サイズ)を太腿の辺りに装着します。夜は、 もっと大きめの尿タンクをベッドサイドに置いて、そこに 貯めます。 今度の先生によると、こうすることにより、尿が腎臓に逆 流することを阻止でき、それでなくても機能が落ちてる彼 の腎臓の負担を減らすことが出来るのだそうです。事実彼 のクレアチニンは、やや減少を示していました。 ただ、この処置の欠点は、痛いことです。なにせカテーテ ルを自分のせがれの中心から膀胱まで通してあります。カ テーテルは尿を貯めるカセットに接続されています。です から、自分が動く度に、チクチク、ズキンズキン痛みます。 私も昔やって貰ったので良く判ります。それと彼に取って の悩みは、sexが出来ないことです。私は我慢するが彼女が 待ってくれないと、彼は嘆いていました。しょうが無いね、 生きるって辛いことなのです。 彼は母国に居る家族と相談して、帰国の意思を固めつつ あります。腎臓移植手術も選択肢の一つですが、そうなれ ばドナーを見つけるのは外国の方が見つけやすいことも 理解しています。ようやく光が射してきたようで、私も 嬉しいです。 7月13日 一番古い友からの電話ー3一番古い友からの電話ー3 戦後、田舎に引き上げてきて会った勝行さんと、62年 ぶりに遊ぶのがgolfと言うのが、驚きです。62年前には golfと言う物の存在さえ知らなかった2人ですから。私達 がplayするコースは、6月30日がワークジャパンとなり ました。http://www.par72.co.jp/gcguide/gcinfo_1932.htm 私は、この日早朝に夜行バスで福島駅に着き、阿武隈急 行電車の1番電車に乗りました。故郷の駅に着くと、降り たのは私独り。改札の所に勝行さんが待っていてくれま した。がっちり握手をして車で勝行さんの家に。子供が 巣立ってる勝行さんの家には、奥さんが待っていてくれ ました。お会いするのは、従兄弟の長男の葬儀の時以来 です。温かくておかずが沢山の朝ご飯を頂き、いっぷく。 すぐ隣のお寺の墓には、私が3歳の時に死んだ実の母が 眠っていますので、墓参りにいきました。合掌 一休みして、車で出発。勝行さんより2つ年下の遊び 仲間,golf仲間のHさんの家に寄り、Hさんとgolf道具を積 んで出発。天気は上々素晴らしいgolf日和です。2年前に 天津を離れる数日前に、天津の日本人の仲間が送別golf をしてくれましたがそれ以来、素振りもしたことがない クラブを握ったこともありませんでしたが、106で上がり ました。勝行さんは105でしたので、一つ負けました。 golfの上手なHさんには、ハンデを貰った上に、更に大負 けです。 golf場のお風呂は大きくて眺めが素晴らしかったです。一 旦自宅に帰り、昼寝タイム、ぐっすり寝てしまいました。 昼寝から覚めて一休みしていると、さっきのHさんと、 彼の奥さんが来られました。そのうちにHさんの同級生 で勝行さんの遊び仲間が3人、そのうちの2人は奥さんも 一緒です。父の実家の隣のWさん、私と遊んでくれた 2つ先輩ですが奥さんも一緒に参加してくれて宴会が始 まりました。勝行さんの奥さんの手料理と、集まって くれた皆さんそれぞれの持ち寄り料理で、食べきれない ほど豪勢な宴会になりました。 私が中国で貰って、大事に取っておいた、貴州産の58度 の白酒をおみやげに持ってきたのですが、それを飲んで 貰いました。大抵は強くて匂いが強いので、話の種に 1杯だけ飲んで貰いましたが、中には、これは美味しい と言う人も居ました。ビール、焼酎が中心でしたが、そ のうちに日本酒が欲しいと言うことになり、勝行さんが 1本どすんと持ってきました。後で聞いたら、コンビニ まで行って買ったそうです。 もう豪華料理には興味が無く、普通の料理を美味しく 頂きたい私が、特に嬉しかったのは、太平洋岸で釣り具 屋をしているSさんが持ってきてくれためばるの煮付けと 今日、この中の誰かが取ってきてくれた破竹のキンピラ (煮付けもきんぴらも、作ってくれたのは、たしか、 勝行さんの奥さんの筈)、それとWさんの奥さんが炊い て持ってきてくれた豆ご飯、このご飯の塩味は、塩を使 わずに醤油で味つけたと言う、その味は絶品でした。本 当に感激でした。随分お酒も飲みました。 翌日のgolfは夕べ来てくれた仲間の一人、Nさんが加わり、 彼の車で連れて行って貰いました。コースは、パーシ モンカントリークラブです。素晴らしいフェアウエイと http://www.pacificgolf.co.jp/persimmon/index.asp グリーンでしたが、かなり難しく、109叩きました。 勝行さんもイーブンでした。この日も天気は良くてすっ かり日焼けをしてしまいました。終わって風呂に入った 時に痛くて大変だったです。しかし楽しい楽しい2日で した。私は想い出をいっぱい胸にしまって横浜に帰って きました。皆さん有り難う。勝行さん有り難う。勝行さ んの奥さん有り難う御座いました。 7月8日 一番古い友からの電話ー2一番古い友からの電話ー2 勝行さんの提案は、2日連続でplayしよう。泊まりは勝行さん の家で、どうかと言うものでした。私に取っては有り難い 申し越しで、その言葉に甘えさせて貰うことにしました。 バイトとボランテイアの日程の中で、2日連続のplayで、予 定を立てるのは難しいことでしたが、6月29日の夜行バスで 福島に着き、その日playして泊まり、翌日もplayして、その まま家に帰って来れないことも無いのですが、もう一泊して 翌日帰って来ることで、お互いの計画を摺り合わせしました。 勝行さんは、私と2日連続playするので、29日のgolfをキャン セルして待ってくれました。キャンセルしなければ3日連続 になるからです。 私と勝行さんが遊ぶのは、実に62年ぶりになる訳ですが、 こんなに長い間、交友関係が途絶えなかったのは、父の故郷 の家と勝行さんの家が2軒隣と近かったことが一番大きな原 因でしょう。我が家が戦争に負けて父の実家に引き上げてきた 時には、父の母は存命でした。その家を引き継いだ父の長兄は 既に亡く、その長男、私の従兄弟が当主でした。 その従兄弟は私より10数歳年上でしたが、パタっと亡くなり、 その長男も若死にして、今はその奥さんが当主なので、私 からはだいぶ遠い人になります。従兄弟の葬儀の時、私は大 阪に住んでいましたが、駆けつけました。このとき既に私は 福島の親戚の人達から見ると、知らない遠い親戚の伯父さん になっていました。「あれ、誰だい?」「ケイちゃまの長男 さんだ」「あーケイちゃまって居たったない」と言う会話が 聞こえてきました。この時は、勝行さんとは会えずに戻りま した。 従兄弟の長男の葬儀の時、私は余りに急な若者の死で、平服の まま、喪服はスーツケースに入れて駆けつけましたが、葬儀は 自宅で始まっていて、隅っこで着替えて参加をし、ぎりぎり 間に合いました。精進落としの食宴が始まるとすぐに、勝行 さんが目の前に座り、「あるいちゃん、俺が誰だか判っかい」 と聞いてきました。「いつも喧嘩で助けてくれた勝行さん」と すぐ判りました。その時で、実に50数年ぶりの邂逅でした。 それからは年賀状のやりとり、電話のやり取りで、私達の間柄 は脈々と続いてきたのです。 その時から、勝行さんは、「あるいちゃん、定年になったら 帰っておいで、golfでもすっぺよ」と言ってくれていました。 62年前に、この辺りにgolf場がいくつも出来て、そこで私達が golfをするなんてことを誰が予想出来たでしょうか? 7月7日 一番古い友からの電話ー1一番古い友からの電話ー1 貴方の一番古い友達はどんな人ですか?私の一番古い友は 上海で幼年期を過ごした時の友である大友君ですが、もう だいぶ前に、連絡が付かなくなってしまいました。実に残 念です。その次ぎに古い友は、私達家族が、上海から引き 上げて、父の故郷である福島県伊達市に一旦、居を構えた 時の学友勝行さんです。 日本が戦争に負けた日、1945年8月15日、私は上海第八国 民小学校の1年生、7歳でした。前日の14日、私が近所の子 と遊んで居た時、そこの家のお姉さんが、泣きならやって きて、日本が戦争に負けたと言いました。私はこんな大人 の人でも泣くのは、凄いことなんだと思った記憶が有りま す。翌日、そこの日本人家族が一つの家に集まり、天皇陛 下の終戦の詔勅を聞きました。私には何を言っているのか 全く判らず、隣の家の女の子と、おはじきをして遊んでい ました。 その日から敗戦国民となった我々日本人は、特に中国北部 に居た人達は大変な苦労に遭遇しました。私達はたいした 目には遭わずに日本に帰ってきました。翌年の4月には上海 から船に乗って博多に着き、首からDDTの粉を浴びせら れ汽車を乗り継いで、福島に、そこから福電で梁川に着い たのです。 私は梁川小学校の2年に編入されました。1年の時に、殆ど 勉強らしい勉強をせずに2年生になりました。私の父は、 福島人なのに若い頃から上京し、苦労して大学を出て、東 京人の母と結婚し、私は東京弁で育てられました。だから 福島の小学校に入ったとたんに、異文化人となりました。 周りの子供達に歓迎されると思いきや、こいつ東京の言葉を 喋ると周りを囲まれました。誰かが生意気だと言いました。 あの頃、生意気だは、立派な戦線布告の言葉でした。普通は ここで、私はいじめに会うことになりますが、私の場合は、 こんなに小さい頃から、いじめには敢然と立ち向かうことが 体内に組み込まれており、それを聞いた瞬間に、何この野郎 と相手を殴り飛ばしていました。そこに居た相手を全部やっ つけました。 これで、自分の組は平らげたので、安心して居ると、隣の 組のガキ大将が、攻めてきます。この時助けてくれたのが 同学年で隣の組の勝行さんでした。私も喧嘩は強かった。 同学年の子なら4人位は負けない自信は有ったし、1対1なら 2学年くらい上でも負けないでやりました(やっつけた相手の 兄貴が敵討ちに来るので、どうしてもやります)。しかし 勝行さんは、もっと強かったです。頼もしい友でした。 その勝行さんから、この6月に電話があり、「アルイちゃん もう定年だべ、ゴルフでもすっぺよ」と誘われました。 |
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