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6月27日 俳句俳句 2007年6月27日 私は俳句を趣味としていません。が、ある俳句クラブのワープロ 打ちのお手伝いをしております。メンバーは20名程で、全員が 70歳を超えています。句会に投稿するのは、大体18人程、一人 2句投稿が決まりなので、およそ36句が1回に投稿されます。 句会は月に2回開催されるのですが、仮に5日と20日に開催さ れるとします。6月5日に全員が自分の作品2句を持ち寄ります。 私の仕事は、この36作品をA4、2枚にワープロで打ち込みます。 俳句ですから、縦書きで、ルビ付きで打ちます。3日以内に仕上 げて会長さんに渡します。この6月作品一覧表は20日の句会の 時に全員に渡され、全員はそれを家に持ち帰り、次の5日の句会 で良い句を投票し、順位や、最高点の句が発表されます。 さて、上で、渡すと書きましたが、全員出席なら全員に手渡しで、 完了するのですが、当然欠席者が出ます。それが厄介です。 メンバーでe-mailをやる、出来る人は居ません。居れば、その 人には、e-mail添付で送れるのですが、これがダメです。FAX を持ってる、扱える人が2-3割は居ります。ところが会長さんが FAXを持ってないので、利用がぐんと落ちます。作品投稿日に 会に参加出来なかった人が我が家へFAXしてくる場合が2-3件 あります。 難漢字:俳句を嗜む人は、通常、言葉や字にこだわります。 主人と書いてあるじとルビを打ってくる場合もあれば、主だけで あるじと振り仮名をしてくる人も居ます。5月の句会で以下の作品 が投稿されました。 (a) 姫女(ひめじょ)菀(おん)群(むら)がり咲けど侘しけれ (b) 姫女(ひめじょ)苑(おん)吾も花よと咲いている 姫女苑 http://www.hana300.com/himejo.html aさん、bさん、別人が別の場所で作った句で、言っていることは 同じなのだが、それぞれ別の句である。しかもaさんは「菀」と書い て居る。この字を見つけるのが難しい。私は最初、苑しか出て きませんと答えたのだが、aさんは、いや必ず菀も有りますと、 仰るので、苦労してwordの辞書から見つけてきました。(なんだ 俺よりワープロ出来る人、居るじゃん) 6月25日 うーん、これは便利だ羽田と上海間 10月運航で合意 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070625-00000202-yom-bus_all 羽田ー上海虹橋が直結すれば、これは便利だ。成田ー浦東は 客が減るだろうな。両空港とも都心部から遠いが、成田ー東京 中心部の遠さと、浦東ー上海中心部の遠さは大分、訳が違う。 成田は今よりもっと便利にするのは大変だが、浦東は地下鉄 2号線を空港まで延長すれば簡単。しかも名前は地下鉄だが 浦東地区では、事実上高架になっており、工事は、上海が その気になりさえすれば早く完成するだろう。 但し、そうなった場合、上海は今走っているリニアモーター カーの立場が、怪しくなる筈。だが、あれは見世物と腹を くくれば、あとは、簡単な話だ。 6月22日 風林火山の時代考証-2-風林火山の時代考証-2- 2007年6月22日
6回講演の第5回目が20日に有りました。講師は東大助教授 小島毅先生でした。タイトルは「川中島の合戦をめぐって」です。 結論を先に言うと、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは、学問 的には無かったようです。時代考証としてあの時代、あのよう な大合戦で、一軍の総大将が単騎で動くなどと言うことは、 有り得ないことだそうです。ですが、これもまた、一騎打ちが 無かった証拠を見せろと言われると、これも出せないのが事実 です。そうなると、既に江戸時代に語られていた、あの一騎打 ちの話が、大衆に支持されており、現代ではNHKの大河ドラマ で何回も放送されて、延べ何百万人が見ているあのシーンを、 あれは嘘ですとは、言い難いですね。 両軍の合戦は: 1553年、天文22年 1555年、天文24年 1557年、弘治3年 1561年、永禄4年 1564年、永禄7年 と、12年間にわたり5回行われたそうです。 そして有名な一騎打ちは永禄4年の戦で、場所は川中島の 八幡原とされており、現地に行くと両者の銅像が立っている。 私も何年か前に、見てきたが話の内容を再現した立派な銅像で ありました。 話:http://nagano.miffylovei.com/archives/50583110.html この話の基である、『甲陽軍鑑』が既に江戸時代に書かれた 軍旗物でフィクションを盛り込んだ可能性が大である。 小島先生によれば、先生自身の研究ではないが、学内のこの 道の研究者によると山本勘助も実在しなかった可能性が高い そうだから、夢が無くなる。少なくとも軍師勘助は居なくて、足軽 大将勘助は居たかも知れないとのこと。この時代、軍師は僧侶 がやるものと決まっていたそうだ。それは、戦をするとなると、 兵糧、軍資金、兵隊と総力戦になるので、広い知識を持ったアド バイザーが必要で、事実上僧侶しかこの役は務まらなかったと 言う。 勿論これに対して異論反論は大いにあろう。勘助に係る貴重な 資料を展示した展示会が開かれている。 http://www.fujisan.ne.jp/iyashi/ 勘助ゆかりの地と言われる富士宮市には山本八幡宮も有れば、 勘助の母の墓も有る。 http://www.fujinomiya.gr.jp/ 私も是非行って見るつもりだ。 川中島の合戦が、熾烈で、何度も戦われた割には、歴史的には 余り意味をなさないのは、信濃の国の取り合いであったこと。これ 即ち信玄も謙信も、天下人を目指して居なかったことが、最近の 歴史研究で明らかなそうである。 http://d.hatena.ne.jp/paco_q/20070502/1178044395 この戦の1年前、永禄3年、織田信長が今川義元を破った桶狭間 の戦いが、日本の歴史の中で大きな意味を持ち、その後に続く 豊臣秀吉、徳川家康と言う天下人が日本の舵取りをすることに なるのは周知の事実である。 そうは言いながらも、私も今年の暮に向かって進行する信玄(市川 亀治郎)と謙信(Gakt)の一騎打ちを楽しみにして、日曜日の夜は 風林火山と決めている。 6月14日 船で天津へ-10最終-
6月13日 船で天津へー9-
6月10日 船で天津ヘー8-
船で天津ー7-
6月9日 船で天津へー6-
6月8日 船で天津へ-5-船で天津へ-5- 2007年6月3日→5日 船で天津へー4-
6月4日 船で天津へー3-船で天津へー3- 2007年6月2日
朝は7時に船内放送が鳴る。最初に中国語で、次に日本語で、
「皆様お早う御座います。本日は6月2日土曜日で御座います」。 続いて英語で同じことを放送するが、上手な発音だ。船の従業員 は全員中国人で、だいたい日本語は通じる。特に上手い子も居る。 男の船員で私が日本人と判ると英語で返事してくる人も居る。 それと、所謂外人のお客さんが数組居た、バックパッカーで男女 の2人連れだ。天津を上陸地点にして中国を旅するのであろう。 日本人バックパッカーも男子が5-6人、女子が1人、男女の組が 1組居た。 まだ日本の領海内だからであろうか、時間は日本時間を使用して
いる。日本の7時は中国の6時だ。部屋を出てレストランに行って みると、朝食は8:00からとなっている。それなら日本のコンビニ お握りを食べてしまおう。冷たい缶ビールと一緒に保存してある が、もう保存の限界だろう。自前の朝飯を食べて、パソコンを いじっていると、船内放送で、朝食は8時からレストランで用意 してあります。無料ですとのこと。そういうことは早く言いなさい。 船内を歩いてみると、自販機が多いので、便利だ。缶ビールが
人気で、2日目の朝にして、売り切れの赤ランプが点いてるのが 多い。缶、ビンのジュース・コーヒー、カップ麺もある。お湯が 自由に使える。私の部屋にはポットが有るのでこれに入れて、 部屋でお湯が使える。但し湯飲みが無かったので、レストラン から貰ってきた。カップ・コーヒーのサーバーもあって、black から砂糖ミルク多目まで選べる。但し1杯150円と高い。 自販機はベンダーが日本の業者なのであろう、方式から商品まで
日本と同じだ。ビールはキリンとアサヒで中国製は入って無い。 レストランの営業中に、ビンビールを頼むと「青島」が出てくる。 先ほど対馬沖を通過したと放送が有ったので、今頃は済州島沖の 筈だが何も見えない。外は雨である。時々貨物船が遠くに見える。 下部甲板に卓球室とゲームの部屋があるがゲームマシンは動くの
どうか判らない。放置してあるようだ。その更に下のフロアーに 風呂とサウナがあることになっているが、午後3時に開くとの ことで、今は鍵がかかっている。 レストランの傍に、麻雀部屋があり、3卓置いてあった。いつで
も自由にできるようだ。船室内は全て禁煙なので、ロビーとか 自販機前のテーブルではタバコが吸える。そこで、トランプを しているグループもある。 お孫さんを連れた中国人のお婆さんから話しかけられ、暫く話し
ていたら、え?日本人ですか?中国語が上手ですと言われた。 まんざらでもない。って言うか、私は中国人と間違われるようだ。 船内の地図を見ていたら、今頃ここを走っているよと、中国人の 爺さんに話しかけられた。応答すると、すぐ日本人と判ったよう だ。どこから来たのかと聞かれたので、横浜と答えると、彼は 東京から来たとのこと。そして彼は、東京から神戸は遠いよ、夜行 バスできたが、横浜・東京から中国へ行く船は無いのか?と聞いて きた。私は無いと思うと答えた。それから、年は幾つだと言う話に なり、お互い1938年生まれだと判り、一気に親密になった。彼は 天津に着いたら、黒龍江省まで汽車で故郷に帰ると言っていた。 昼食近くになって、進行右側に島が点点と現れてきた。きっと
韓国の領海内に入ってきたと思い部屋のTVを点けてみると、案の 定、韓国語が飛び込んできた。昼食の案内放送があり、レストラン に行く。スープ一椀50円、ご飯は取らずに饅頭(中身の無い、白い 蒸しパン2個)50円、にんにくの芯と豚肉の細切れを炒めたやつ 450円、梨1個50円、合計600円で安い筈だが、私の心は既に天津 モード、物価の基準が天津になっているので、高いよと、口には 出さずに叫ぶ。 昼寝をして、3時になったのを確かめて風呂場に降りる。先客が
一人居る。風呂場には誰も居なかったがサウナに居た。畳三畳程の サウナに2人で入ってるから話さない訳には行かない。私の方から 温度が低いねーと話しかける。彼は、ここでは調節できないと言う。 仕方が無いので、80度位の間の抜けたサウナに入り続ける。日本 人か?そうだよ。何処へ行く?天津。そうか私は大連に帰る。 天津は仕事?いや、もう退職して仕事は無い、旅行で行く。何歳? 68歳.いやー68には見えない、若い体をしている。いやいや、もう 歳だよ。 中国語が多少でも出来ると、こういうとき便利で楽しい。40分
ほど風呂を楽しんでから、冷えた缶ビールを買って部屋に戻り、 きゅーと一気に飲んだ。 夕食が済んで、カラオケタイムとなり、私は部屋で本を読んで 時間を潰した。夜の10時になり、営業時間の終了を告げる船内 放送の時に、「中国の領海に入りました。時間を1時間遅らせて ください」とのこと。いよいよ明日は天津だ。 船で天津へ行くー2-船で天津へー2- 2007年6月1日 6月3日 船で天津へー1-船で天津へー1- 2007年5月31日
私の家は横浜市なのだが、根岸線で横浜に出るより大船へ出る方が
早い。それで大阪行きの夜行寝台急行「銀河」に乗るには、当然の ことながら横浜へ戻らずに大船へ出て乗る。こんな長距離列車が大 船に止まってくれるのが有難い。5月31日、23時42分が定刻なのだが 早めに着いて、10数分間、何本か電車の到着を待つようなことにな った。こんな遅い時間なのに、東京から来る電車は殆ど満員で、皆 勤め帰りで疲れた感じで眠りこけてる人も多く、グリーン車までも 人で満ち溢れていた。こんな中で、ジーンズにスニーカーで大きな 旅行荷物を持って立っている自分が、まるで場違いの人間に思えた。 定刻より5分ほど遅れて「銀河」がやってきた。今までに入ってきた
通勤列車と違い、車両の中はもう寝台がセットされていて、殆どの 座席がカーテンですっぽりと包まれ、降りる人は無く、乗る人も、 私が乗る2号車では2人だった。2号車はB寝台で、下段は満席、上段 は2/3が埋っている。私の席も上段で、ほかの人を起こさないように 静かに上がって、すぐに寝た。 大抵の人がそうらしいが、夜行列車と言うのは、走っている間は
寝ていて、止まると起きる。私も浅い眠りの中で何回か、今汽車が 止まったなーと言う記憶がある。ここは何処だ?と考えると、その まま目が覚めてしまうが、それを考える前に汽車が動いてくれると また次の眠りに落ちる。4時半頃だったろうか、長い停車時間に目が 覚め、駅名を確かめたらまだ米原だった。またうとうとして、今度は 「次は大津です」と一言だけ車内放送があった。この頃から起きて 顔を洗ったり歯を磨く人が現れた。 こう書いてると言うことは、私も起きてしまっていた。通路側の窓
のカーテンは上げられ壁にはめ込まれた椅子を直角に降ろして、座 って外を見ていた。京都が近づいてくると、車内放送は、皆様お早う 御座いますから始まり丁寧に何回も繰り返され、新大阪や大阪への 到着予定時刻も告げられ、乗客も完全に下車準備態勢になる。 私の関心は、通勤ラッシュの電車に、この大きな荷物を持って、どう
やってお邪魔にならないように乗るかであった。いろいろ考えて、 大阪乗り換えはまずいだろう、新大阪で神戸方面に行く電車に乗る 方が問題が少ないだろうと考え、そうした。7時25分に新大阪駅に 着いた。降りたホームの真向かいに網干に行く快速電車が来る。満員 である。私はなんとか乗れそうな入り口を見つけ、乗り込んだ。幸い なことに大阪では乗り込んだ反対側が開き、多くの人が降りて、私は 座ることができ、荷物は棚に上げることができた。重かったが。 阪急のガード下なら、暖かい味噌汁で朝食が食える筈との考えが、
頭をよぎったが、安全策でコンビニおにぎりとお茶を買い、ポート ライナーでフェリーターミナルに向かった。そこにも食堂が有って、 暖かい朝食が食えるだろう。乗船時間までたっぷり有るからそこで ゆっくりできる。と、考えたが、私は甘かった。こんな時間、天津 行きの客のためだけに食堂は開いてなかった。安全策のおにぎりが 役に立った。悪い予感はしていた。満員のポートライナーから、8時 15分、ポートターミナル駅で降りた乗客は私一人だったのである。 エッそうなの、と思いながら駅の改札を出ると、目の前がフェリー
ターミナル。だがお客さんは居ない。早すぎるのは判っていたが、 広いホールの中を歩きながら、パンフレットを集める。上海航路も あるが毎週火曜日だ。松山航路は毎日あるが夕方だ。四国への橋は いくつもできたが、航路も残っていたんだ。そのうちに、自分が居る 所は3階で天津航路のチェックインは1階でやると言う事が、書いて ある案内板を見つけた。1階に下りて見ると何人も座って待っていた。 やれやれ一安心。 |
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